古民家リノベーション体験談76 応接間デストロイ(破壊)
【前回までのあらすじ】借金+借金+借金=∞(INFINITY)
屋根が終わって、いよいよ母屋の内部というところで、残金があやしいことになったリノベーション工事。
その先に進む前に、詳しくお話していなかったとある部屋についてご紹介します。
それは「応接間」。
母屋にドッキングする形で増築された、母屋にとって最高に余計な空間であり、速攻で破壊された建物です。
速攻すぎてちゃんと説明してなかったので、この機会に語っときます。
はいこれ。
この部分です。
過去記事で解体の話をしましたが、その時は玄関と土間の解体しか触れてませんでした。
でも実際は、その隣に増築されていたこの応接間もデストロイしていました。
なぜ触れなかったのかというと、全く悩まなかったから。
TSUTAYAの旧作レンタルで「7泊8日」を選ぶのと同じくらい、僕にとってそれは当然の選択だったのです。
なぜかというと、
はいこれ。
お分かり頂けるだろうか。
左側に部屋があるじゃないですか。これが応接間なんですけどね。
ここ、本来なら縁側と前栽(庭)があったとこなんですよね。
分かりにくいですかね。
イラストで説明します。
はいこれ。
こういうことですよ。
本来、ここには素晴らしい三間続きの和室と、素晴らしいL字型の縁側と、素晴らしい日本庭園があった。
はず。
なのにいつしかそれがぶっ壊され、その代わりにピンク色のカーペットと、アルミサッシと、なんか大理石の暖炉っぽい飾りと、革張り応接ソファセットとガラスのテーブルなんかが一揃った、「洋風の応接間」というものが作られていたのです。
もーほんとにだっふんだ!!!(追悼)
何考えてんねん!!!
意味分からんですよ。
TSUTAYAの旧作レンタルで「1泊2日」を選ぶくらい意味分からん。
でもこれと同じことが、今もなお、日本中のあちこちで起きていますよね。
美しい風景をぶっ壊して高架道路が開通しました~とか。
古き良き街並みをぶっ壊して近未来アミューズメント型ショッピングモールが誕生~とか。
もうええっちゅうねん。
ス〇バとかサイ〇リアとかA〇Cマ〇トとか靴〇屋とかJ〇NSとかカ〇ディとかもうええっちゅうねん!
いやカ〇ディは近所に欲しいけども!!
何の話や。
とにかくそういうことで、縁側を破壊してくれた応接間さんを破壊することに、僕は何のためらいもありませんでした。
部屋の内部はこんな感じ。
でね、なぜこんな部屋が作られたのかというと。
1970年代生まれの僕はリアルタイムで知ってるわけではないですが、僕が生まれるより前の時代に、「古民家を新建材で洋風の家にしようぜブーム」が起きたのではないかと思います。
もちろん当時は「古民家」という概念はなく、「戦前からある普通の家」という程度の認識だったでしょうが、1950年代くらいに化学製品であるビニールクロス、プリント合板、フローリング、アルミサッシなどといった新建材が出回り始め、さらに三種の神器、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が登場。
そのうちシステムキッチンのはしりのようなものが登場すると、もう日本中の主婦が「土間のおくどさんで米を煮炊きする」みたいな世界観から脱却し、「土間ってダサくな~い?」「キッチンってナウくな~い?」となったんですね。たぶんね。
なんかそういう流れの中で、来客をもてなす場所も、これまでの「座敷」から「洋風の応接間」へと遷移していったのではないでしょうか。
でも座敷をいきなり洋風の応接間にすることは簡単にできないので、んじゃ増築と。
まーそれはね、新しいもの好きの日本人だもの、しょうがない。
流行に流される気持ちも分かります。
でも縁側は潰すなやと。
などと文句ばかり言ってますが、この部屋は仮暮らしの間、建具倉庫としては一応役に立ってくれました。
前にも書きましたが僕たち一家はこの古民家を買ってすぐに工事したわけではなく、離れに1年住んで、じっくり工事プランを練ったのですが、その間、並行して建具・家具集めもしていたのです。
まーその点では役に立ったよ。
でもな。
この応接間さえなければ解体もせずに済んだし、縁側が破壊されてなければ復元もしないで済んだし、たぶん総工費、300万円くらい安くなったんじゃないかな。
そしてこの後、解体によって壁が失われた状態のこの隣の部屋を仕事部屋にした僕は、やがて真冬を迎えるわけだが――
それはまた別のお話。
では最後に、破壊後の写真と、縁側復元のアフターの写真を載せて終わります。
破壊
ビフォー
アフター。めでたしめでたし。
復元工事の話は、またちょっと先になりますが、ゆくゆくちゃんと解説しますね。