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陰影礼賛のあらすじを紹介してみるテスト

陰翳礼賛

昨日は5のつく日にも関わらず更新できなくて誠に申し訳ありませんでした。
死んだと思った方もいらっしゃると思いますが大丈夫です生きてます。
大変申し訳ありません。
いや15日のトークイベントのことばっか考えてたらブログが頭から普通に抜けちゃったんですが、本当に、本当に、ミスをした時にえらい人から怒られるサラリーマンじゃなくて良かったと思いました。
こんな大きなミスを犯しても誰にも怒られない。
自営業最高!!

という反省感たっぷりの僕ですが、前回、前々回の倚松庵の流れを受け、本日は谷崎潤一郎『陰影礼賛』について真面目にやりたいと思います。
文学部卒の僕は大谷崎の著書についてふざけるなんてことはできません。
真面目です。

『陰影礼賛』を読んだことのある方はたぶんクロニカ読者の0.2%くらいだと思います。
『陰影礼賛』読んだことある? って聞くと「え、よくわかんないですけど、小説?なんですか?あたし字読むとかムリで~YouTubeでありますか?」みたいな反応が普通だと思いますので、そういった人のために、今回、僕がざっくりと超口語調に変換して超短くしたあらすじを書いてみま……
って、
これ谷崎生きてたらしばかれるやつやな。
まあいい。谷崎先生本当にごめんなさい。やります。

あ、死ぬほど長いよ今回。そこんとこヨロシク。

あらすじ。
現代は電気とかガスとかがあるからそういうのを和風の家に調和させるのってむずいよね、扇風機とかもう全然馴染まんやん? 電灯も和室に合わそうとしてる商品が色々あるけど、俺はそういうのも気に入らんので、石油ランプとか行燈とかをアンティークショップで買ってきて使ったりしてるんよね。中でも大変なのは暖房器具、ストーブで和室に合うやつなんか一つもないやん、だから百姓の家にあるようなでっかい炉を作ったりしてるのよ。
あとトイレね、トイレはほんと難しい。俺、京都とか奈良とかの昔風の薄暗いトイレ、めっちゃ好き。気落ちが休まるっていうか、ほらトイレって母屋と離れてるやん? そんで青葉とか苔の匂いとかしてくるような植え込みの蔭にあって、廊下を歩いてそこに行くねんけど、その薄暗い光の中で座って、ほんのり明るい障子の反射の中で、窓の外の庭を眺める時間ってなんとも言えんよね。漱石先生おるやん、漱石先生もトイレ大好きらしくって、生理的快感って言ってるらしいよ。静かな壁と、きれいな木目に囲まれて、青空や葉っぱの色を見ることができる日本のトイレってめっちゃいい。
でさ、そういうトイレの良さって、ある程度の薄暗さと、清潔であることと、蚊の音が聞こえるくらいの静けさが必須なんよね。俺、そんなトイレで、しとしと降る雨の音を聞くのが好き。マジでトイレは虫の音とか、鳥の声とか、月夜の明かりとか、四季折々のもののあわれを味わうのにちょうどいい。西洋人の連中がトイレを汚いものといって口にするのも嫌がるのに比べたら、俺らの方がいけてるよね。
まあ難点を言えば寒いことやけど、「風流は寒きものなり」って斎藤緑雨も言ってるし、ああいう場所は外気と同じ冷たさの方が気持ちいいんよ。ガンガン暖房ついたホテルのトイレとか、イヤじゃない?
でさ、西洋風にしようとして真っ白なタイル貼りまくったトイレもあるけど、あれはもう「風雅」とか「花鳥風月」からは切れちゃってるよね。あっちもこっちも真っ白な壁だらけじゃ漱石先生の言う「生理的快感」は得られないのよ。確かに真っ白にすれば清潔感が出るけど、なんかむき出しすぎるというか、明るすぎるのも下品だって思うんよね。
やっぱりトイレはもやもやした薄暗がりの光線で包んで、どこがきれいでどこが汚れているか、そういうのを曖昧にしといた方がいいわ。

そもそも便器にしても電灯にしてもストーブにしても、いまだに俺らの和式に似合うやつが発売されてないのが問題。まあこういうのにこだわるのって贅沢で、寒さ暑さや飢えをしのげれば何でもいいって人もいると思うし、実際、やせ我慢してても、目の前に超便利な器具があったら風流とか関係なく使っちゃうよね。
でもさ、もし東洋に西洋とは全然違う独自の文明が発達してたら、どんなに今日の俺らの暮らしが違ってただろうって思うんよね。もし俺らが独自の数学、化学、哲学を持ってたら、たとえば機械とか薬とか工芸品とか、全部俺らにピッタリのものが生まれてたと思うんよ。
とかそんなことを空想するのは俺が小説家だからで、空想したってもう今の社会になってるんだから俺のは単なる愚痴なんやけど、とにかく俺らが西洋人に比べてどんだけ損してるかっていうのは考えてもいいと思う。
つまり西洋人っていうのはそのまま進歩してきた。でも俺らは途中で西洋の文化に出会って、これまで数千年かけて発展してきた俺らの文化とは違った方向に行ってしまった。まあ出会ってなかったら全然発展してなかったかもしらんけど、でもめっちゃ時間かけたら、いつかは電車や飛行機やラジオみたいなやつをオリジナルで生み出してたんちゃうかな。
たとえば映画見ても、アメリカのものと、フランスやドイツのものじゃ、陰翳とか色合いが違うのよ。そういうビジュアル一つとっても国民性が出てる。だから俺らに独自の写真技術があったら、どんなに俺らの皮膚や見た目や気候風土に適したものだったかって思うよ。蓄音機とかラジオにしても、俺らが自分らで発明してたら、もっと俺らの声や音楽の特長を生かすようなものができてたと思う。

京都に「わらんじや」っていう有名な料理屋があって、そこでは最近まで客間に電灯をつけずに古風な燭台を使うのが名物になってたのが、今年の春、久しぶりに行ってみたら、いつの間にか行燈式の電灯を使うようになってたのよ。なんでそんなことやったんか聞くと、蝋燭の灯では暗すぎるって仰るお客様が多いものでございますから、こういう風に致しましたが、やはり昔のままの方がよいと仰る方には、燭台を持って参りますって言う。で、せっかくそれを楽しみに来たんだから、燭台に替えてもらったんやけど、その時に俺が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そういうぼんやりした薄明かりの中に置いてこそ、初めてほんとうに発揮されるっていうことだったんよね。
燭台に替えて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳とかお椀を見つめてると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みを持ったつやが、全くそれまでと違った魅力を帯びだしてくるのが分かる。友達のインド人が言ってたけど、インドは食器に陶器を使うのがNGで、ほとんど塗り物を使ってるらしいけど、俺らはその反対に、お茶とか儀式とかじゃなければ、普通は陶器ばっか使うやん。そんで漆器みたいなのは野暮ったい、雅味のないものみたいに思われてしまってるけど、その理由の一つには、彩光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいなんじゃないの? って思うわ。
実際「闇」が無いと漆器の美しさは分からない。昔からある漆器の色は、黒か、茶か、赤で、それは「闇」が幾重にも堆積した色なんよ。周囲を包む暗黒の中から生まれ出たものっていうか。
たとえば派手な蒔絵が描かれたピカピカ光る蝋塗りの箱とかあるやん、いかにもケバケバしくって嫌な感じするやん、でもさ、その箱を取り囲む白い空間を真っ黒の闇で塗りつぶして、太陽や電気の光の代わりに一点の蝋燭の明かりにしてみて。そしたらたちまちそのケバケバしいものが奥深くに沈んで、渋い、重々しいものになると思うよ。古い工芸家がそういう箱とか器に漆を塗って、蒔絵を描く時って、必ずそういう暗い部屋を頭にイメージして、少ない光の中における効果を狙ったに違いないって思うんよね。金色をぜいたくに使ったりするのも、それが闇に浮かび上がる効果とか、蝋燭の光を反射する加減を考えたと思う。つまり金蒔絵は明るいところで一度にぱっと全体を見るようなもんじゃなくて、暗いところでいろんな部分が時々少しずつ底光りするのを見るように作られてるのよ。

ぐああしんどい!
これでまだ1/10!!
もうやめていいですか!!

という感じで、死ぬほどおもろいから読むように。
ようするに谷崎は「暗い部屋がカッコいい」って言ってるんじゃなくて、暗がりをも美として受け止めることができる我々日本人の感性について語っているのです。
これはマジで古民家住みたい人にとっては必読の書よー。
考え方、感じ方の基盤がひっくり返されると思います。
これを読む前と読んだ後では、確実に古民家に対する捉え方が変わってるだろうし、リノベーションプランも大きく変わってしまう可能性だって充分にあると思います。

僕の古民家の直し方って、根っこにこういう感覚があるのですよ。
谷崎が語ったのは「暗さ」についてですけど、それ以外にもたくさんの日本人の感性というものがあります。
谷崎が冒頭で触れたように、今ある我々の社会、文化というのは、ほとんどが余所からの借り物なのです。
その対極にある「古民家」という純日本文化を、自分はどう評価し、解釈するか。
自分の普通の感覚に従ってリノベーションかけちゃう前に、一度そういうところを振り返って、深掘りして、分析してみてくださいね。
そうすると、思ってもいなかった答えが見つかるかもしれませんよ。

おわり。

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